最近のプロ棋士は、大山康晴先生VS升田幸三先生の棋譜を並べて将棋を勉強したりしていた。
最近の小学生は、羽生善治二冠VS佐藤康光二冠の棋譜を並べて将棋を勉強したりしているそうだ(「将棋世界」2008年6月号より)。
いつかきっと、人間が、コンピュータ将棋の遺した棋譜を並べて将棋を勉強するときが、本格的にくるだろう。
ただし多分それは、コンピュータ将棋が時の名人を倒してから、しばらくあとの話。
「不気味の谷現象」とは
「不気味の谷現象」という考え方がある。
不気味の谷現象とは、ロボットや他の非人間的対象に対する、人間の感情的反応に関するロボット工学上の概念である。(中略)
外見と動作が「人間にきわめて近い」ロボットと「人間と全く同じ」ロボットによって引き起こされると予想される嫌悪感の差を不気味の谷と呼ぶ。人間とロボットが生産的に共同作業を行うためには、人間がロボットに対して親近感をもちうることが不可欠だが、「人間に近い」ロボットは、人間にとってひどく「奇妙」に感じられ、親近感をもてないことから名付けられた。
以下この谷を「キャズム」と呼んでみる。(ここでいうキャズムは、「ロジャースの普及理論」でいうところの「キャズム理論」ではなく、「意識の隔たり」という意味で使っている。)
これは主に、人間を模したロボットの話。不気味の谷現象は、映画「スパイダーマン」のCGキャラクターや、聴覚に拡張すれば「初音ミク」(限りなく人間的でありながら、音の繋がりが不自然であるために、たまらなく違和感・不快感を持つ者もいる)にもあてはまるといえるだろう。
「スパイダーマン - Wikipedia」
「初音ミク - Wikipedia」
これらは、視覚、聴覚に訴えた話。
不気味の谷現象をさらに拡大解釈すれば、『知能』にさえもあてはまるといえるかもしれない。何が言いたいかというと、将来トッププロを凌駕してしまった後の、われわれ人間のコンピュータ将棋への接し方についてだ。
「知」に対する不気味の谷現象
私の推測では、トッププロの棋力を超えたとしても、コンピュータ将棋の棋譜を直ちに並べて勉強する、という人はあまりすぐには増えない。コンピュータ将棋なのだから、ポカの無い優れた棋譜はいくらでも生み出せる(思考エンジンアルゴリズムのとんでもないバグやエアポケットは除く)わけで、「Bonanza VS 激指 1万番勝負」とか「Bonanzaシャドー将棋(Bonanza VS Bonanza)10万番勝負」なんて棋譜集はいくらでも作り出せるのだが、それを買って並べたいと受け入れられるまでにはかなり時間がかかるのではないだろうか。理由としては、下記が考えられる。
- 棋譜に人間ドラマが感じられず(終盤、最後の最後でのとん死、など)、面白みが無い。・・・補足:「【新春対談】梅田望夫氏と佐藤康光棋聖が語る(2)学習の高速道路を抜けるとけもの道 (4/5ページ)」の中で、梅田望夫氏(id:umedamochio)は「僕の感じは、人間が感動する棋譜を生み出すところまで、勝ち負けということを超えて、一つの将棋の芸術性の美しさを考えるところまで、コンピューターは進化していけないのではないか。」と述べている。(裏を返せば、勝ちを求めるため棋譜を並べて勉強している人にとってはそんな芸術性は必要ない、といえてしまうが)。
- ソフト指しと思われるような、人間には思いつかないような手が時折現れる。大局観が変わっているので、人間には参考にはならない。・・・補足:2008/05/12のエントリー「将棋ソフトが現役アマ王者を撃破」でも少し述べたように、トッププロ同士の対局であっても、「優勢な局面において、優勢を保てる手が1つしかないという局面で最初から最後まで戦っているわけではない」(私はそう思う)し、「不利側には、形勢を離されてはいけないという条件付であっても、いろいろな粘り方がある」ので、たとえトッププロを凌駕するようになっても、指し手にコンピュータらしさは現れる。
- そもそもコンピュータ将棋が遺した棋譜ということで、やっぱり生理的に気味が悪い。・・・補足:不気味の谷現象は、狭義にはこの点のみをさすといえるかもしれない。
このような「人間味」も含めた「人間知能至上主義」ともいえそうな考え方は、別に捨て去る必要は無い。これらにプラスして「コンピュータ将棋の世界もある」と嫌悪感無く素直に受け入れられたとき、コンピュータ将棋に対する不気味の谷のキャズム越えを果たし、素直にコンピュータ将棋の遺す棋譜を並べられるようになるであろう。とにもかくにも、このように「知」に関する不気味の谷現象を論じることができることに、「将棋」というゲームのすばらしさと誇りを感じる。
コンピュータ将棋とプロ棋士は、別の世界に住んでいる?
梅田望夫氏は、同対談の中で下記のようにも述べている。
人間が有限の時間を使って1局の将棋を指す、2人の人間が脳を使って芸術作品を作るという、そういうことの意味みたいなものって、コンピューターが出てきてもあまり関係ない。
まだ、コンピューターが弱くて、人間が強いという状況なので、コンピューター対プロ棋士の戦いには一瞬の話題性はあります。しかし、それで仮にコンピューターが勝っても「ああそうですか」ということです。
つまり、棋士の指す将棋とコンピューターのそれとでは、目指すものがまったく違うわけで、強さを比べることに意味はないのです。
この意見は、「現時点では」私も同意であり、たとえコンピュータがプロ棋士を完全に凌駕した後でも、プロ棋士の将棋の価値は依然として存在し続けると思うし、プロ棋士の遺す棋譜とドラマを私は追い続けるだろう。コンピュータ将棋とプロ棋士の世界は別世界である。
しかし、「将来的には」非常に不安を感じてしまう。「強さを比べることに意味が生じてしまう」、強さに関して2つの世界が融合してしまう、あってはならない事態が公然と生じることになると思うのだ。
「この手は、事前研究でコンピュータに教えてもらいました」 in 感想戦
将棋は、かなり先の手数まで定跡化が進んでいる。特に「角換わり腰掛銀」など特定の戦型においては、詰みまで研究されている変化もある。対局者同士の呼吸さえあえば、数十手先のお互い熟知した指定局面まで突き進むこともよくある。
例えば第1図の局面(71手目!)は、「将棋世界」2008年6月号の「勝又教授のこれならわかる!最新戦法講義」によると、2007年8月から9月にかけて4回も現れているそうだ。なおその4局のうちの1つ、2007年8月21日に行なわれた第15期銀河戦決勝トーナメント2回戦第4局▲羽生善治二冠VS△飯島栄治五段戦(飯島五段の勝ち!)は、「囲碁・将棋チャンネルホームページ」で参照できるので興味ある方はどうぞ。
他には、▲羽生善治二冠VS△久保利明八段戦が、わずかな期間で4局位「ゴキゲン中飛車超急戦」の変化(第2図)を指している、という例もある。
このようなあらかじめ予測できる「指定局面」を、事前にコンピュータを使って徹底的に調べておく、ということが当たり前になりうる。その中で、人間には気付きにくい絶妙手がコンピュータから提示されることが起きうる。これを実戦で放って見事勝利する。これによって遺された棋譜は、はたして「人間同士の間で競われた、英知の極限を現した芸術的な棋譜」と呼べるのだろうか?
佐藤康光先生は、上記対談の中で下記のように話している。
しかし、チェスは引き分けが多い。4〜5割は、トッププロがやっても引き分けになる。ところが、将棋はほとんど必ず決着はつきますので、ゲーム性が違う。
そう、ゲーム性が違う。将棋のほうがコンピュータによる影響が大きく、危険なのだ。
引き分けに向かって収束していくチェスと違って、将棋においては中・終盤における「コンピュータから授かる事前助言の恩恵」は非常に大きく、問題になりやすいと私は感じる(私はチェスは全然知らないので憶測)。
事前の検討をコンピュータにゆだねた後の将棋の世界は、あまりいいイメージがしないが、日本将棋連盟、プロ棋士全体が議論を積み重ねて、魅力ある世界を続けていくことを、私は祈っています。
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